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第6回世界絵画大賞展にて、協賛社賞を受賞いたしました。
下記の期間展示されるので、よかったら足を運んでくださいませ。

会期:2010年10月24日(日)~2010年11月3日(水)
AM 9:30~PM 9:00(最終日はPM 3:00まで)
会場:世界堂新宿本店6F特設会場
http://www.sekaido.co.jp/prize06_kekka.html#top

あと、大阪芸術大学主催の国際アートトリエンナーレにも入選しました。展示期間は過ぎちゃったんですが、お知らせまで。
大阪芸大のホームページにて作品を見ることは出来ます。http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/leonardo/index.html
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千葉市美術館で田中一村展を見てきました。
遠いけど、今までなかなか本物を見る機会が無かったので、これは行くしかない!と思いはるばる高速バスで行ってきました。

やー、すごかった。
画集では見たことの無い昔の作品(なんと小学生の時のものから)や、今回初めて発見され展示された軍鶏図、頼まれて描いた屏風絵や天上画、有名な奄美大島での作品など、かなりの点数を生で鑑賞出来ました(後で図録見たら250点だった)。しかし、若い頃の作品が新鮮で面白かったのでじっくり見すぎて、最後の方は閉館時間ギリギリになってしまい、奄美大島時代の大作を流し見することに...(涙)1時間半じゃ足りなかった...、これから、行こうと思っている人は気を付けてね!あと1時間は欲しかった。

田中一村は、作品もさることながら、その人生もよく語られます。
50歳で単身奄美大島に渡り、極貧のなか本当に一途に純粋に自らの人生をすべて懸けて絵を描いた画家です。生前それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没しました。粗末な借家で夕食の準備中に心不全で倒れ、床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期だった。(享年69歳)

一村は、1908年(明治41)、栃木に生まれた。彫刻家の父の影響で幼い頃から書画に親しんでおり、7才の時には児童画で天皇賞を受賞しています。その頃の墨絵も展示されていたが、かなりの腕前、小学1年生の作品とは思えない筆捌き、書も勢いのある良い字でした。神童と言われていたのも納得。父は幼い孝(一村の本名)の画才を見抜き、”米邨”という画号を与えたが、それが父”稲邨”の子だからと言うのが面白い。
そして、17才にして「全国美術家名鑑」に名を連ね、(十代で名鑑に名前があるのは彼だけだった)翌年には東京美術学校(今の東京芸大)に入学、同期には東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいた。しかし一村は僅か三ヶ月で退学し、誰にも師事することなく独学で自分の信じる画道を突き進んでいく。東京の貧しい借家暮らしで肉親を次々に失い、千葉に移り住み、野菜を育て、鶏を飼い絵を描いていた一村は、40才頃から、精力的に公募展に出品していくようになる。しかし1947年に川端龍子主催の青龍展に入選するが、龍子と意見が合わず離れていったし、また日展、院展では認められず相次いで落選し、中央画壇への絶望を深めた。

日曜美術館を見て知ったが、1958年(昭和33)に自分の画人人生の中で描くことが出来た”悔い無き絵”が院展で落選し、その絵をナタを持ってきて、壊し火を付けて燃やしてしまったそうだ。その絵の白黒の写真が今も残っているが、もう色の付いたそれを見ることは叶わない。一村は燃やしながら「引きずりたくないから断ち切るんだ」と言っていたそうだ。同年、一村は奄美大島に渡ります。

以下、奄美大島に渡った翌年3月中島義貞氏あての手紙
 
『いま私の全神経は、絵に向いています。さわられても、叩かれたように驚きます。実に楽しく絵をかいています。絵が楽しくなると正反対に、私の言動は狂人に近くなります。オランダのゴッホも、フランスのセザンヌも、執筆中の夏目漱石も、画室に於ける横山大観先生も、狂人同様であったことを想起して下さい。
 いま私が、この南の島に来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。
 皆様は、私が一人ならば、何とか絵を売って、この南の島で生活して行くだろうと、簡単に考えていらっしゃる様ですが、未知の風景、植物、動物を調査し、写生し、絵に構成し、それを名画の水準まで高めた上にさらに自分で売る程の精力の余裕が、私にあると思し召されて居るのでしょうか。私には猿回しや旅芸人のような生活力はありません。
 きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。千葉寺で米を買う金がなく、スイトンのゆで汁から丼(どんぶり)を洗った水まで、姉と一緒に飲んで勉強したことを思い出し、泣きました。』

大島紬の染色工として働きながら、一村は絵を描き続けた。地元の人の話によると、ハブが出るから危ないと言っても森に入ってゆき、「木も鳥もすべてが一緒に無いといかん」と言ってスケッチをしていたそうだ。奄美大島と出会って、一村の絵は変化を見せてゆきます。南国の面白い形態をしているモチーフもそうですが、そこに住む人々の信仰心や風土、生きている植物・動物・虫、とにかく全てのものにその感性を眼差しを向けて、それを絹の上に表現していきました。
代表作の一つである「クワズイモとソテツ」では、クワズイモの花が蕾から花開いて、そして朽ちていくまでを、またソテツの雄花と雌花(実際には開花に半年の差がある)も、同じ画面に描きこまれており、その奥には島で立神と云われている海に浮かぶ聖なる岩が描かれている。一枚の絵に時間の流れと、それと同じくして生物が変化していく様を表現し、命が繋がっていっているんだという事を感じさせられる。

一点ずつ感想を述べたいけれど、長くなりすぎるので纏めますが、
一村の到達した境地の作品群、そこには一点の虚偽はなく、彼の精神性が感じられ、ただただ作品に圧倒される思いである。

こんなにも絹に美しい墨の濃淡を描けるものなのか!墨だけで!(絵具の部分もあるが)
どれだけでも見ていられる求心力があり、その世界に惹きこまれる。描かれてるどの生き物もまさに“生きているもの“としてそこに「存在」しており、そのひとつひとつに一村の愛情というか畏敬の念を感じます。島の人は、一村の絵を見ると”怖い”と思うそうです。なぜなら、島の人は近づかない聖地といわれる人を風葬するその場所、そこからの景色を描いているそうです。彼はもうそういった島そのものというか、その一部になって描いていたんだろうと思いました。

個人的なポイントとしては、千葉時代からですが、彼の描く鳥のフォルムがすごい好きで、尾長鳥の絵なんか特に好きです。奄美に行ってからのアカショウビンも、もうたまらないです。(アカショウビンに関しては実物の造形もかなりキャラクターっぽいですが)ツボにはまってます。とにかく私としては、すごく感化されるというか、インスパイアされる展覧会でした。田中一村の過去最大規模の回顧展ですし、見に行く価値絶対ありです。http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/0821.html

その後は、一村の“生命が変化していく”関連ではないですが、九十九里浜に漂流物を拾いに行ってきました。私の趣味では無く、彼の趣味なんですが興味があったので一緒に付いて行ってみました。その話は、また後程書こうと思います。




明けましておめでとうございます。
あまり変化のないサイトですが、本人は色んな状況などの変化が目まぐるしくて、去年は怒涛のように過ぎました。特に後半が。
思えば、夏に行った八丈島で会ったペンションのオヤジに予言めいた占いをされてからの様な気がする。私の免許証を見るなり、

「君…九紫火星だね…」

「偶然にしてもこの時期にこの方角その中でも八丈島という場所を選んで来たのは、かなりいい!帰ってからの3ヵ月間にすごい事が起こるよ。」
(その日は夜中までオヤジと飲んで色々ほかの話も聞いた。)

と言われ、私も急に八丈島行きたくなっただけあって、(発酵会のくさやも買いたかったけど)
ノリノリで気分良くして実家に帰ったのに、休み明けの仕事初日に、社長の奥さんから不景気により仕事が無いから、やめてくれと言われ完全フリーダムになったし。でも何故かショック受けて無い自分がいて、そんとき思い出したのが、古武術の講座で先生が言っていたこと。

古武術の技は色々あるけれども、私はそれを教えるという事をしない。それは流動的なものでどんどん変化していくもので、私自身でさえ昨日気付いた事とはまた違ったものに気づき発見するかもしれない。だから確立された”こうだ”という絶対の方法はないのである。不安定な状態こそ、どちらにも転べる至極柔軟な状態である。

はい、まさにその状態の心地よさだったのでしょう。
自分を一言で表せる肩書きがまったく無い。
まあ自分を一言で説明するのもやだけど。
ただのフリーターだと言われそうだが!

そんな中で兄嫁の出産のお手伝いも出来たし、絵も描いたし、キムチ漬けたり、餅つきに行ったり、妹のベイビーも生まれて年末年始はバタバタとしていたからお家の手伝いいっぱいして、祭りで似顔絵も描いて、スジナシの観覧に行ってナマ釣瓶と森本レオ見て…

んー1年早いね~と呟きたくないけど、呟いちゃうね。


佐藤太清賞の公募展で入選いたしましたので、
巡回展の日程をお知らせします。
良かったら何かのついでにでも足をお運びください。

福知山市厚生会館 平成22年 1月23日(土)~ 1月24日(日)
福知山市佐藤太清記念美術館 平成22年 1月27日(水)~ 2月7日(日)
横浜赤レンガ倉庫1号館 平成22年 2月13日(土)~ 2月16日(火)
板橋区立グリーンホール 平成22年 2月25日(木)~2月 28日(日)
日図デザイン博物館 平成22年 3月 4日(木)~ 3月 7日(日)
名古屋市民ギャラリー矢田 平成22年 3月24日(水)~ 3月28日(日)
 
それでは、今年も宜しくお願いします。




七彩輪

8月22日(土)〜27日(木)
12:00〜19:00(最終日17時まで)
Gallery 風
東京都中央区銀座8−12−13豊川ビル4F

東京銀座のGallery 風にて、若手の日本画家7人でグループ展を行います。
去年と同じメンバーで、今年で2回目の展覧会です。
私は、上の部分画像の作品含め、6号サイズの絹絵を3点出品する予定です。
日常のちょっとした怪奇で快気な想像を、そのまま絵にしてみました。

画像の作品でいうと、
スイカの怪談話に影響もされつつ、こないだスイカ割りして砕け散ったスイカが、
人の頭のようだなと、ふと妄想にふけって堪えきれずに絵にしてしまいました。
私は、常に自分が見てみたい、と思う絵を欲望して、描いて満足するというサイクルな気がします。それは全くもってほとんど現実にないものだから、自分で描くしかないです。
誰かが私に見せてくれる訳でもないので。
かなり自己完結な制作スタイルだけどもね・・・

でも、いつもそう考えると、なんて私は視覚に頼り切っているんだろうと、不安になります。自分の体のなかの、目の部分を使いすぎている気がして、それを失ったらどうしたらいいか分からなくなりそうと思ってた。
ただ、最近、というか、地元に帰ってきてから少し体を壊したということもあって、
自分の体というものをすごく意識し始めることができた。
こんなにも身体の状態如何で、
自分の気持ちとか意識が変わるものだったなんて、知らなかった。
食べるものもジャンクなものをやめて暴飲暴食も控え、
”イイもの”を摂り始めて2年半、どんどん感覚がクリアになっていく。
でも、今まで煩悩が制作の源、的なところがあったから一時期身体とともに、
精神も健全になりすぎて、イマイチ日本画の制作意欲がわかなかったから、
その間ずっと、ただやりたいことをひたすらやって生活してた。
そんな中で色んなおもしろい人と出会って、
そうしたらまた今までと違った世の中の見方ができて、
新しい好奇心や遊び心がわいてきて、現在に至ってます。

武道論身体論で著書の多い内田樹氏が「私の身体は頭がいい」と言っているが、
彼はなんでも身体にきく。
何かを選ぶときも頭で考えずに身体が”気持ちいい”と感じる方にいく、そうすると頭で考えるよりもうまくいくのだそうだ。だから、頭じゃなくて、身体が”頭がいい”のだ(笑)。
確かに生活スタイルも仕事なんかも身体に合わないものをやてると、いつか壊れるし、
食べ物なんかも腐ってるかなんて、賞味期限関係なく、臭いや味ですぐ分かる、
だめならすぐ身体が反応して出してくれる。
風邪のときに吐くのなんかもその一つ。

すこし前に、内田氏が影響を受けた古武術の達人、甲野善紀先生に会う機会があって、
間近で身体やその動きを見たけれど、すごかった。
自分の身体を使いこなせてるのだ。背中を見せてもらったが、
無駄な肉が全くない、しなやかな筋肉と骨と皮が一目でわかる。
身体の能力を使いきれると無駄な、いわゆるボディービルの様な目に見える筋肉はつかない。
筋トレは、いかに身体に負荷をかけて重いものを持つか、ということだが、古武術はいかに身体をうまく使って、楽に重いものをもつかだ。
日々使えるのはやはり、古武術の方だろう。

私たちの身体はものすごく可能性も能力もあるのに、
現代人の生活では、自分の身体と心に向き合う余裕もなくなり、多すぎる情報に踊らされて、
すぐにサプリメントや薬に頼ってしまう。
私たちの身体はものすごいシステムを持って生まれてきたのだから、
使わなければもったいないと思う。
私はもう3年くらい薬類は服用してません。
今年の冬にインフルエンザにかかったときは、自力で治しました。
4日でけろりと治り、悪いものを全部出したのか、身体の調子も逆に良くなりましたが、
薬を飲んで治した母の方が長いことのどに残ってました。
そうやって治す方が逆に身体は強くなる、その機会を薬で奪ってしまうのは、
またまたもったいない。

で、現在制作の追い込みまっただ中。
でも今日は息抜きに発酵ともだちのパン屋さんちで流しそうめんをやってきました。竹で器とハシを作るところからです。なぜかパスタとシラタキも流れてきましたが、おかまいなしです。夏ですねえ。






来週から母方の父、祖父の人形展が
栄のチカシンというギャラリーで開催されます。

この話はだいぶ前から決まっていたが、
去年のクリスマス。パーティのため、普段は出歩かない夜にうちへやってきた祖父が、縁石につまずいて右の大腿骨を粉砕骨折してしまった。

歳も歳なので、すぐにリハビリに入らないと
筋肉が衰えて寝たきりになる可能性があるとのことで、
ボルトを入れる手術を行った。
それから3週間は病院に入院、その後リハビリ専門施設で3ヶ月という。

未経験の祖父には
とてつもなく長い。

監獄の宿舎のような殺風景な病室、思い通りにならない自分のカラダ。
いつも冗談を言い、皆を笑わせていた祖父が、今までに見たことがないくらい元気が無くなっていた。

年齢性別てんでバラバラのいつもの人形仲間との
初めての展覧会、祖父は「無理そうだな・・・」と言った。

でも私はせっかくだから祖父が今までこつこつ作ってきた人形たちを、
お披露目して欲しかったし、入院してる祖父の励みにもなると思った。
それで、すべて私が引き受けた。

よく祖父から話は聞いていた、仲間たちと
先月初めて会って詳しく打ち合わせをした。
本当に年齢も性別もばらばらだ・・・、
私の知らない祖父の世界をちょっと知れてなんだかうれしいような不思議なきもち。祖父は人形を作ったり、焼き物をしたり、日本画を描いたりとものつくりが大好きで、私の良き理解者というか、相談相手というか、色んな発見をさせてくれる人だ。学生のころ博物館の授業でインタビューをするという課題がでて、私はすぐ祖父にしようと決心。
戦前から戦後今にいたるまで、根掘り葉掘り聞いた。
それがすごく自分にとっておもしろい経験になって、今自分が存在してるけど、そこに到るまでの、軌跡を振り返ったら全てが繋がっていた。

存在するすべてのものに歴史があるんだなぁ。



ということで昨日は、会社で仕事終わったあと
祖父の人形の修復をしてました。
今まで会社でやってたことがかなり役立った!(仏像修復の会社です)
人形の肌の部分にフォクシングというカビの斑点がでてしまっていたのでなおしました。写真はビフォアーアフターです。
今日は祖父に頼まれてた菩薩像の光背を金泥で彩色しようと思います。
これも展示されます。


「春うららーひなまつりによせる人形展」
2月19日(木)~25日(水)
開廊時間. AM10:00〜PM6:00. 住所. 〒460-0008 名古屋市中区錦三丁目 16番10号先. 所在. 栄地下街 名鉄瀬戸線栄駅改札口から南へ5m.
http://www.komkom.net/map-tikashinn.htm






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