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千葉市美術館で田中一村展を見てきました。
遠いけど、今までなかなか本物を見る機会が無かったので、これは行くしかない!と思いはるばる高速バスで行ってきました。

やー、すごかった。
画集では見たことの無い昔の作品(なんと小学生の時のものから)や、今回初めて発見され展示された軍鶏図、頼まれて描いた屏風絵や天上画、有名な奄美大島での作品など、かなりの点数を生で鑑賞出来ました(後で図録見たら250点だった)。しかし、若い頃の作品が新鮮で面白かったのでじっくり見すぎて、最後の方は閉館時間ギリギリになってしまい、奄美大島時代の大作を流し見することに...(涙)1時間半じゃ足りなかった...、これから、行こうと思っている人は気を付けてね!あと1時間は欲しかった。

田中一村は、作品もさることながら、その人生もよく語られます。
50歳で単身奄美大島に渡り、極貧のなか本当に一途に純粋に自らの人生をすべて懸けて絵を描いた画家です。生前それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没しました。粗末な借家で夕食の準備中に心不全で倒れ、床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期だった。(享年69歳)

一村は、1908年(明治41)、栃木に生まれた。彫刻家の父の影響で幼い頃から書画に親しんでおり、7才の時には児童画で天皇賞を受賞しています。その頃の墨絵も展示されていたが、かなりの腕前、小学1年生の作品とは思えない筆捌き、書も勢いのある良い字でした。神童と言われていたのも納得。父は幼い孝(一村の本名)の画才を見抜き、”米邨”という画号を与えたが、それが父”稲邨”の子だからと言うのが面白い。
そして、17才にして「全国美術家名鑑」に名を連ね、(十代で名鑑に名前があるのは彼だけだった)翌年には東京美術学校(今の東京芸大)に入学、同期には東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいた。しかし一村は僅か三ヶ月で退学し、誰にも師事することなく独学で自分の信じる画道を突き進んでいく。東京の貧しい借家暮らしで肉親を次々に失い、千葉に移り住み、野菜を育て、鶏を飼い絵を描いていた一村は、40才頃から、精力的に公募展に出品していくようになる。しかし1947年に川端龍子主催の青龍展に入選するが、龍子と意見が合わず離れていったし、また日展、院展では認められず相次いで落選し、中央画壇への絶望を深めた。

日曜美術館を見て知ったが、1958年(昭和33)に自分の画人人生の中で描くことが出来た”悔い無き絵”が院展で落選し、その絵をナタを持ってきて、壊し火を付けて燃やしてしまったそうだ。その絵の白黒の写真が今も残っているが、もう色の付いたそれを見ることは叶わない。一村は燃やしながら「引きずりたくないから断ち切るんだ」と言っていたそうだ。同年、一村は奄美大島に渡ります。

以下、奄美大島に渡った翌年3月中島義貞氏あての手紙
 
『いま私の全神経は、絵に向いています。さわられても、叩かれたように驚きます。実に楽しく絵をかいています。絵が楽しくなると正反対に、私の言動は狂人に近くなります。オランダのゴッホも、フランスのセザンヌも、執筆中の夏目漱石も、画室に於ける横山大観先生も、狂人同様であったことを想起して下さい。
 いま私が、この南の島に来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。
 皆様は、私が一人ならば、何とか絵を売って、この南の島で生活して行くだろうと、簡単に考えていらっしゃる様ですが、未知の風景、植物、動物を調査し、写生し、絵に構成し、それを名画の水準まで高めた上にさらに自分で売る程の精力の余裕が、私にあると思し召されて居るのでしょうか。私には猿回しや旅芸人のような生活力はありません。
 きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。千葉寺で米を買う金がなく、スイトンのゆで汁から丼(どんぶり)を洗った水まで、姉と一緒に飲んで勉強したことを思い出し、泣きました。』

大島紬の染色工として働きながら、一村は絵を描き続けた。地元の人の話によると、ハブが出るから危ないと言っても森に入ってゆき、「木も鳥もすべてが一緒に無いといかん」と言ってスケッチをしていたそうだ。奄美大島と出会って、一村の絵は変化を見せてゆきます。南国の面白い形態をしているモチーフもそうですが、そこに住む人々の信仰心や風土、生きている植物・動物・虫、とにかく全てのものにその感性を眼差しを向けて、それを絹の上に表現していきました。
代表作の一つである「クワズイモとソテツ」では、クワズイモの花が蕾から花開いて、そして朽ちていくまでを、またソテツの雄花と雌花(実際には開花に半年の差がある)も、同じ画面に描きこまれており、その奥には島で立神と云われている海に浮かぶ聖なる岩が描かれている。一枚の絵に時間の流れと、それと同じくして生物が変化していく様を表現し、命が繋がっていっているんだという事を感じさせられる。

一点ずつ感想を述べたいけれど、長くなりすぎるので纏めますが、
一村の到達した境地の作品群、そこには一点の虚偽はなく、彼の精神性が感じられ、ただただ作品に圧倒される思いである。

こんなにも絹に美しい墨の濃淡を描けるものなのか!墨だけで!(絵具の部分もあるが)
どれだけでも見ていられる求心力があり、その世界に惹きこまれる。描かれてるどの生き物もまさに“生きているもの“としてそこに「存在」しており、そのひとつひとつに一村の愛情というか畏敬の念を感じます。島の人は、一村の絵を見ると”怖い”と思うそうです。なぜなら、島の人は近づかない聖地といわれる人を風葬するその場所、そこからの景色を描いているそうです。彼はもうそういった島そのものというか、その一部になって描いていたんだろうと思いました。

個人的なポイントとしては、千葉時代からですが、彼の描く鳥のフォルムがすごい好きで、尾長鳥の絵なんか特に好きです。奄美に行ってからのアカショウビンも、もうたまらないです。(アカショウビンに関しては実物の造形もかなりキャラクターっぽいですが)ツボにはまってます。とにかく私としては、すごく感化されるというか、インスパイアされる展覧会でした。田中一村の過去最大規模の回顧展ですし、見に行く価値絶対ありです。http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/0821.html

その後は、一村の“生命が変化していく”関連ではないですが、九十九里浜に漂流物を拾いに行ってきました。私の趣味では無く、彼の趣味なんですが興味があったので一緒に付いて行ってみました。その話は、また後程書こうと思います。
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